松山城の築城の歴史

築城地の決定

ロープウエイ乗り場横の加藤嘉明銅像

関ヶ原の戦い以前、正木(まさき〔松山市の南隣、現在の松前町〕)で6万石を領していた加藤嘉明は、後に20万石に加増されます。嘉明は手狭になった正木城から新たな城下町の建設を思い立ちます。

勝山に築城したかった嘉明は、江戸幕府に築城の許可を得る際、当時の幕府が候補地を三つ挙げさせ、その第二候補に許可を出す慣例を逆手に取り、最も築城を希望した勝山をわざと第二候補に挙げ、勝山での築城許可を得ることに成功したと言われます。

築城奉行“足立重信”川の流れを変える

加藤嘉明は勝山に城を築くにあたって、家臣の足立重信に土木工事の多くを任せました。重信は城下町の付近を度々氾濫させていた湯山川を他の川と合流させ大幅な改修を行いました。改修した川のひとつは足立重信に因み“重信川”と名付けられました。

そして現在の勝山は築城前には2または3つの峰が合ったと言われます。これを切り崩して、間の谷を埋め、山頂に平地を作り天守の土台を造りました。また、埋めた峰の間には泉が湧いており、埋める際に泉のあったところに石積みをし深さ44メートルもの井戸としたと言われています。

しかし重信は、松山城の完成を見ること無く落成の2年前の1625年に亡くなりました。没後は重信の遺言により、松山城の北側にある来迎寺(松山市御幸)に葬られ、今なお松山城を見守っています。

本丸の井戸
来迎寺の足立重信の墓

リサイクル建材

石材は、正木城や湯築城、一部の建物(筒井門、乾櫓、乾門)は正木城のものを移築しました。正木城は、松山市の南西約8kmの松前町筒井にあった海城であり、関が原の戦いまで加藤嘉明が、ここで6万石を領していました。正木城の遺構はほとんど残されておらず、わずかに筒井門の礎石が存在するのみとなっています。

筒井門
乾櫓

堅牢な石垣

登り石垣

登り石垣とは、山腹からの敵の侵入を防ぐために山頂の本丸と麓にある城郭部分との間に作られる山の斜面にある石垣です。

加藤嘉明は水軍を率いて参加した朝鮮の役での経験をもとに松山城を築いたと言われます。朝鮮の役で日本軍によって築かれた“和城”と呼ばれた城の多くは平山城で登り石垣が使われていました。

松山城では、二之丸から本丸を囲むように、二之丸北側から乾門までと二之丸南側から大手門までの2つの登り石垣があります。南側の登り石垣は修復されていますが、北側のものは修復されておらず部分的に崩れた石垣が残るのみとなっています。登り石垣は、松山城以外では、彦根城、洲本城などで見られます。

※安全のため登り石垣の上には登ることはできませんのでご注意ください。

最古の建物

天守閣の原型と言われる望楼型(ぼうろうがた)の櫓(やぐら)です。野原櫓(のはらやぐら)は加藤嘉明の築城当時から残る松山城で最も古い建物の一つです。

野原櫓
天守閣から見た野原櫓

“松山”の由来

城下町の完成ととも、これを“松山”と命名されました。松山の名前の由来には、いくつかの説があります。

江戸幕府松平家の「松」の字をもらい“松山”としたという説、きれいな松がたくさん生えていたため“松山”としたという説があります。

松山との別れ

加藤嘉明は寛永四年(1627)松山城落成の直前に会津四十万石に転封となります。

嘉明は長い年月を掛け築き上げた松山に愛着を持ち、幕府に松山での留任を願い出ましたが、許されませんでした。