松山を見守る松山城

現存十二天守

明治六年の廃城令にて多くの城郭が、廃城と決まり壊されました。残った城郭の中でも、第二次世界大戦時の空襲で破壊されたもの、火災などで焼失したものもあります。

現在、江戸時代以前に作られた木造天守は全国でも12しか残っておらず、そのような城郭を総じて“現存十二天守”と呼ばれます。また松山城は天守閣以外に21もの櫓や門を重要文化財を擁しています。

松山城以外の“現存十二天守”は、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、高知城です。

天守閣
天守閣から見た本丸の広場

三大連立式平山城

平野の中にある山に天守閣と小天守・櫓(やぐら)などを渡櫓(わたりやぐら)でつないだ形式で造られた“連立式平山城”であり、姫路城・和歌山城と並ぶ“三大連立式平山城”に数えられています。

松山城と公儀隠密

江戸幕府は全国各藩に隠密を派遣し秘密裏に城の図面や藩の内情を調べていたとされ、これを公儀隠密と言います。1627年、松山藩にも公儀隠密が探索に訪れ、その際に作成された探索書と松山城の絵図が残されています。これらの絵図は、現在伊予史談会が所有しており、松山城旧三之丸にある愛媛県立図書館に収蔵されています。伊予史談会は、大正三年(1914)創立の平成25年で100周年を迎える日本で最も歴史のある歴史研究団体です。

明治維新以降

明治六年の廃城令により松山城も廃城と決まりましたが、愛媛県が公園設置の申請を行い公園としました。その後、三之丸を中心として陸軍の管轄となり、練兵場が置かれました。二之丸には陸軍の衛戍病院がありました。城山全体も陸軍の管轄下となりましたが、後に城山のみ公園として開放されました。

歩兵二十二連隊

三之丸にある歩兵二十二連隊跡の石碑

明治十一年より歩兵十二連隊の一部が駐屯していました。明治十七年に歩兵二十二連隊が新設され、二之丸・三之丸に駐屯し、終戦まで兵営がありました。城北の文教地区には、広大な練兵場がありました。

恋人たちの聖地

勝山北西に位置する二之丸の発掘調査において、大井戸より帝政ロシア時代の10ルーブル金貨が発見されました。その金貨には、日露戦争の捕虜ロシア兵と日本人看護婦の名前が刻まれていたことから、2013年11月に二之丸史跡庭園が、恋人たちの聖地に指定されています。

日露戦争時、松山市には捕虜収容所が置かれ、多数のロシア兵捕虜が収容されますが、松山の市民は、彼らを温かくもてなしたとのことです。お城の北側来迎寺の裏山(松山市御幸)には亡くなった捕虜の方々の墓地がロシア人墓地と呼ばれ存在します。

金貨が発見された大井戸
恋人たちの聖地の記念碑

加藤嘉明以前の松山

南北朝時代(1336年~1392年)、湯築城(道後温泉本館近くに湯築城跡が残っています。)に中世伊予守護・河野通盛(こうのみちもり)が城館を築いて以来、湯築城が伊予の政治の中心であり、現在松山城がある味酒山(みさけやま、後に勝山と呼ばれます)の周囲は田園地帯でした。南北朝時代には宮方が味酒山に拠り武家方の河野氏と戦いを繰り広げます。

戦国時代の末期に、河野氏は豊臣秀吉の四国征伐により没落してしまいますが、その子孫・旧臣は日本各地に残り、河野氏発祥の地である松山市の北条地区において年に一度、日本中の河野氏が集まる「河野氏関係交流会」が開かれています。

萬翠荘

旧松山藩15代藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が別荘として建築しました。大正11年の陸軍特別大演習の際、松山に来られた摂政宮(後の昭和天皇)の宿舎とされました。伊予鉄高浜線の高浜駅北方の丘の上に陸軍大演習記念碑が残されています。

伯爵は、フランスの陸軍士官学校への留学などフランスでの生活が長く洋風の建物としました。フランス留学については司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも描かれています。

坂の上の雲ミュージアムより見た萬翠荘
萬翠荘

戦後

城山全体が公園となりました。二之丸には城東中学がありましたが、現在は二之丸史跡庭園として整備されています。三之丸には、多くの建物がありましたが、現在は、松山市民会館、NHK松山放送局、愛媛県立美術館、愛媛県立図書館を残し移転し、景観を活かした公園として整備中です。各種催し物が開かれ、市民の憩いの場となっています。

また終戦後、進駐軍により三之丸を囲む堀を埋め立てる指示が出されましたが、市民の運動により堀は現在もその姿を残しています。